HRV呼吸法
うつ病などの治療でのひとつの壁として「脳を静かにできない」ということがあります。そのため自宅療養となっても、自宅で「このまま治らないのではないか」「自分はどうなってしまうのか」といった思考で無限ループに入っている方がおり、ちゃんと療養できていないと思われます。
もちろん薬物療法で脳を静かにすることは可能なのですが、副作用としては眠気がきたり、場合により日常の生活動作に影響を与えることもあります。
今回とりあげるHRV(心拍変動)呼吸法は、胸のあたりに意識を集中しながら行う呼吸法のことで、脳を静かにする、集中力を高める、気付きをうながすなど様々な効果があるといわれております。
呼吸というものは非常に身近なものですが普段はあまり意識していない動作です。心臓や消化器などの臓器についても何も意識しなくても自律神経により絶え間なく動いております。動くことが当たり前で当然であると考えがちです。
うつ病になると、あるいはなる前の状態をよく観察してみると、視野狭窄で物事の俯瞰ができない状態であることが往々にしてあります。自分の身体というものを意識化することが、客観無私の態度の獲得や視点の広がりにつながり、日常の当たり前に気づけるきっかけになればいいかなと思います。
当院の治療のひとつのツールとして取り扱っておりますので、カウンセラーによる心理面接の中でやり方などお伝えしたいと思っております。
1. HRV(心拍変動)とは?
心臓はドックン、ドックンと拍動を続けていますが、走ったり緊張したりすると心拍が早くなり、リラックスしたり落ち着いていると、心拍はゆっくりになります。しかし、走っていても、リラックスしていても心拍の間隔は、メトロノームのように一定ではありません。これが、心拍の変動性、すなわちHeart Rate Variability(HRV)です。心拍変動は、年齢と共に低くなっていくのですが、より低い心拍変動は、心臓疾患や全般的な健康のリスク、そして精神的な状態や運動パフォーマンスの低下と相関します。
2. HRVを高めるメリット
HRVは、生理学的な健康、そして、心理的な健康にも関わっていますから、多くの問題の改善に役立ちます。
例えば、高血圧、心臓疾患、慢性疼痛、喘息、COPDなどです。特に、心筋梗塞の予後の突然死のリスクの指標にもなっており、血圧やコレステロールレベル、心拍数よりも心疾患については、リスクの予測値になります。
そして、HRVを高めることで、不安やうつ、PTSD、過敏性腸症候群(IBS)などの心理的なことが関わってくる問題の改善にも役立つことが研究でわかっています。さらに、記憶力、注意力、状況の把握、目的に沿った行動、社会性など、認知や行動的な部分の改善にも影響を与えます。
HRVは、「意志力」の指標とも言われ、誘惑に対して、自己調節できる程度がわかります。例えば、元アルコール依存症患者が、禁酒中にお酒を見ても、HRVが高い方が禁酒を続けられたり、難しい仕事に取り組む人が、最初はうまくいかなかったり、批判をされても、HRVが高い方が課題を投げ出さないことがわかっています。
〔心理学者ケリー・マクゴニガル博士「スタンフォードの自分を変える教室」より〕
3. HRVを高める方法
ハートに意識を向けて、自分の心地よいペースで、ゆっくりと息を吐いて吸ってみてください。この状態は、みなさんのHRVを高めています。
私たちの心拍は、息を吸うと心拍数が上がって、息を吐くと心拍数が下がるという自然なリズムがあります。いつもよりゆっくりと深い呼吸をすれば、HRVが上がります。
毎日、それだけのトレーニング、15分ほど行うだけで、2,3ヶ月後にはHRVが改善しているかもしれません。
呼吸がどのくらいうまくできているのか、どの呼吸が自分にとって適切かをアプリで確認しながら、トレーニングをするのが、バイオフィードバックです。
4.コヒーレンス
落ち着いた状態でゆっくりとした呼吸をすると、心拍リズムはなめらかに上がったり、下がったりして、この状態がコヒーレンスです。コヒーレンスのときには、脳機能が高められます。(青いグラフ)
一方、ゆっくりとした呼吸をしても、不安や緊張している時には、波がギザギザで、スムーズでなく、コヒーレンスできなくなり、脳の機能を抑制します(赤いグラフ)。このコヒーレンスな状態をなるべく作りたいわけです。コヒーレンスは、HRVを高めるので、心身の健康に役立ちますし、また、自分でコントロールできる自己調節力やレジリエンス(回復力)が高まります。
コヒーレンスは、普通呼吸ではなかなかできません。
リズミカルに呼吸するHRV呼吸法で、コヒーレンスを高めていきます。
5.ネガティブな思考パターンからの脱却
ネガティブな思考パターンとは、私たちが陥りやすい、過去のトラウマ的体験による感情的記憶を繰り返し経験することによって、ちょうど車の轍のように深い神経回路の溝ができている状態です。
神経可塑性(Neuroplacity)という新しい神経学の考え方によると、記憶や学習などの高次の神経機能を司る脳のシナプスが再生することが近年明らかになっています。それが神経回路の配線のし直しになるわけです。
しかし、脳は、ネガティブな思考パターンが形成した配線回路に長い間慣れ親しんでいるので、そこから抜け出ることは簡単ではありません。
では、どうするのでしょう?
それにはこれまでの古い思考パターンに代わる新しい配線回路に導いてやることが必要です。つまり脳を教育する必要があります。新しい神経回路の方が、ストレスがないことを脳に教えるプロセスが必要になのです。ここに極めて重要な役割を演じる扁桃体が関わってきます。
扁桃体は感情や記憶反応の中枢器官であり、これがネガティブな思考パターンに敏感に過剰反応するために、思考力や知性を司る大脳皮質の機能が正常に働かなくなります。さらに困ったことに扁桃体は慣れ親しんだ刺激や情報にすぐ反応してしまうという傾向があります。新しい神経回路の配線をし直すには、この扁桃体の機能を本来の正常な状態に戻す必要があります。
ハートマス研究所は脳と心臓と感情との関係を30年間研究しているこの分野での世界的先駆者で、その最大の発見は、心臓が脳の機能に重要な影響を与えているという事実です。中でも注目することは、心臓からの神経経路(迷走神経)が扁桃体の中核につながっていることです。
心臓からの心拍リズムによって、私たちの脳機能、つまり配線回路のし直しが可能になります。そこで問題は、どのような心拍リズムを脳(扁桃体)に送るかに関わってきます。コヒーレンスではない心拍リズムは扁桃体を含め脳機能全体を低下させる一方で、コヒーレンスな心拍リズムは脳機能を向上させます。その方法として、HRV呼吸法が有効です。
6. 自己調節力、レジリエンス、適応力を高める
コヒーレンスを高めることで、感情や行動のコントロールができ、落ち着いてより明確な思考ができ、ストレスや困難に対して柔軟に対応でき、決断力、意志力、集中力、回復力(レジリエンス)が高くなることが研究でわかっています。
私たちは活動をする、決断をする、早い対応を求められる、もっと仕事のパフォーマンスを上げることが求められる、一方で、その疲れを休めて次に備える、質の良い睡眠をとる、リラックスするなど、常に変化やストレスの中にいます。
そこで大切なのは、「自己調節力」です。
リラックスだけではなく、仕事や活動、運動する時には集中力や効率も求められます。そのベースとなるのは、変化に適応できること、過剰になったら落ちつき、リラックスしすぎたら活発化する調節力です。
HRV呼吸法は、企業や医療機関、軍や警察、消防、スポーツ、学校、家庭など、幅広い分野でトレーニングに活用されています。
7. ハートと脳のつながり
コヒーレンスな呼吸は、心臓から脳にポジティブな信号を送ります。それが、行動や感情のコントロールと関わる脳の中枢部へ影響を与え、日常の感情コントロール、自分の感情の認識、衝動のコントロール、決断力などの精神的な機能も高まります。HRVを高めることで、記憶の想起、ワーキングメモリ、持続的な注意力や状況の把握がよりよくなり、ゴールに沿った行動に向かいやすくなると、記憶力や行動にも大きな影響が出るのです。
このように心臓と脳は同期されるため(ハート・ブレイン・コネクション)、コヒーレンスな呼吸が重要なのです。
8. ソーシャルなコヒーレンスとコミュニケーション
コヒーレンスは、生理学的な健康、そして心理的な健康や自己調節に役立ちますが、社会的な面も高められることがユニークな特徴です。私たちの心拍リズムは、他者にも伝わることが研究でわかっています。良くも悪くも同期することができるということです。私たちの空気を読むという感覚も心拍リズムが含まれているのだと想像します。
良い同期なら、お互いを気づかったり、コミュニケーションを高めて、息を合わせて、仕事をすることで、ミスが減り、生産性も高まり、チームの達成感にも繋がるでしょう。悪い同期なら、周りのイライラの気分が自分にも伝わって、自分もミスが増えたり、怒りっぽくなったり、ということになるかもしれません。
自己調節ができて、コヒーレンスを高めることができれば、問題に巻き込まれることなく、また、自分のコヒーレンスが周りへ良い同期を伝えられるということです。
私たちの心拍がコヒーレンスになることで自分の脳と自律神経のバランスが良くなりますが、そのリズムは他者にも良い影響を与えます。心拍や脳波は他者と同調する傾向があり、グループでコヒーレンスになることでコヒーレンスが広がり、自分の仲間や家族もコヒーレンスしやすくなり、コミュニケーションが改善します。つまり「息があう」、「チームワーク」が良くなるのです。
コラム:内受容感覚と心の健康
「心身相関」という言葉があり、心と体は密接に関わっていると言われています。例えば「緊張してドキドキする」「怒られてしまうかもと考えると不安で胃がキリキリする」というように、心と体の変化は同時に見られることが多いです。
ここでは、内受容感覚(ないじゅようかんかく)という感覚に着目して、心と体のつながりをどのようにして健康的に保つかを説明します。
内受容感覚とは
大まかには、内受容感覚とは自分の身体内部の感覚のことを意味します。人の感覚は主に3つに分類されており、外受容感覚(視覚や聴覚などの五感)と固有感覚(平衡感覚など環境に対する自分の運動や位置の感覚)、そして内受容感覚(心臓の動きや呼吸の感覚など身体内部の感覚)があります。内受容感覚は主に、自分の心拍の回数をどれほど正確に数えることができるかといった課題によって測定されます。手首に手を当てて数えるといったヒントなしに、感覚だけで自分の心拍数を数えることは意外と難しいです。
外受容感覚や固有感覚にはそれほど個人差はありませんが、内受容感覚は個人差が大きく、自分の身体感覚への気づきやすさは人によって大きく異なることが分かっています。内受容感覚が低いと自分の体調の変化に気づきづらく、疲れていても自分では分からないため、周りの人に指摘されて初めて気づくということもあります。
内受容感覚と感情
このような内受容感覚の低さは、自身の体調面だけでなく、精神面にも影響します。
自分の内受容感覚に意識を向けているときには、島皮質(とうひしつ)と呼ばれる脳領域の活性化が見られることが報告されています(寺澤他、2014)。この島皮質は身体感覚が統合される場所ですが、同時に感情が作り出される場所でもあります。つまり、内受容感覚が低いと、感情の元となる身体感覚に気づきづらくなるため、自分の感情に気づくことも難しくなります。
嫌な感情を感じなくなって良いのではないかと思うかもしれませんが、感情に気づきづらくなるということは、気分が落ち込んだときであっても、その落ち込みに自ら気づき、立て直すために対応することが難しくなるということでもあります。また、実際の身体感覚ではなく、自分の思い込みによる影響の方が強くなることから、過度に落ち込んだり不安になったりすることにつながります。よって、内受容感覚を高め、自分の身体感覚や感情を正確に把握できるようにすることは、心も体も健康に保つことにつながると言えます。
精神的健康との関係
こういった心と体のつながりが見られることから、内受容感覚と精神疾患との関連もいくつか指摘されています。主な研究結果として、内受容感覚の不全が、うつ病や不安障害、強迫性障害等と関係することが分かっています(Khasa et al., 2018)。他にも、神経発達症との関連も注目されています(DuBois et al., 2016)。内受容感覚が低くなりやすい発達特性や性格特性があるのかもしれません。
「自分の心の声を聞く」と比喩的に表現されることが多いですが、実際に自分の心拍を正確に感じ取ることは心の健康にとって大事であると言えます。
内受容感覚を高める方法
内受容感覚を高めて自身の体調や心の状態に気づきやすくするための方法として、マインドフルネスが有効なものの1つではないかと考えられています(Gibson, 2019)。
マインドフルネスのやり方として、様々な種類がありますが、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所行動医学研究が作成した「こころの健康を保つために大切なこと」(作成:成田恵、監修:金吉晴、リンク)に、分かりやすく説明されています。やり方は以下の通りです。
今この瞬間の自分の「考え・感情・からだ」に気づきを向けましょう。
① 座った状態で目を閉じ、呼吸に意識を集中します。
② 途中で様々な考えが浮かんできたら、その考えに気づき、また呼吸に意識を戻します。
③ これを毎日15分から25分間繰り返します。
このとき大事なのは、「こんなことを考えてはいけない」「集中しなくちゃ」と評価するのではなく、あるがままを観察し、受け入れる姿勢で取り組むことです。初めは難しく感じるかもしれませんが、徐々に慣れていくので大丈夫です。日々の生活の中に取り入れてみて、自分の「心の声」に耳を傾ける時間を増やしてみてください。